穴井六郎右衛門(義民)

(概要)
 六郎右衛門ら農民は、幕府に食糧用の米の拝借願いを直訴した。その頃、幕府は一揆禁
令を出していた為、代官所から「徒党強訴」の罪で捕えられた。穴井父子は、死罪獄門、
処刑された三人の首級は龍川寺に葬られる。その後、供養塔が建てられ、今も残る。

(文献)
    
 幕府は寛延三年(1750)、はじめて公私額に向けての一揆(いっき)禁令を出している。
これは、農民たちが年貢や救済を求めて大勢が集まって訴訟することは徒党、強訴、逃散
にあたり、今後は厳罰に処するというものだった。この法令の趣旨説明をした、時の勘定
奉行神尾(かんお)若狭守春央は「豊後岡田庄太夫支配所百姓共、徒党 強訴致し候につき、
厳重吟味の上重き御仕置き仰付けられ候」と述べている。では神尾はわざわざ豊後の農民
の行動とそれへの「重き御仕置き」をいったのだろうか?遺筆三年(1746)正月、幕領
日田郡馬原(まばる)村(天瀬町)の元庄屋穴井六郎右衛門、彼の次男要助、馬原村組頭飯
田惣次を代表とする日田・玖珠郡十三か村の農民は、幕府に「夫食(ふじき)米」(食糧
用の米)の拝借願いを直訴した。それは、定免(じょうめん)制の実施以来貢税負担がふえ
生活が困窮していたところへ、代官岡田庄太夫の新増税、助合穀(たすけあいこく)銀の設
置など(延享2年の新法)があり、困窮がいっそう進んだために行われたものである。六郎
右衛門らは、この直訴に先だって三回も代官所へ訴えた。しかし、増税政策をとった岡田
代官がその訴えを聞くことはなかった。そのため違法行為とされていた直接の幕府への訴
え(直訴)をしたのである。いっぽう、この年春には、日田郡では大山筋の農民七百余人が
久留米藩額へ逃散をし、ほかに小倉森領へ逃げたものもいた。さらに、城内村(日田市)農
民が代官所へ大挙押しかけている。
 かんぼう
 寛保元年(1741)に極められた「御定書(おさだめがき)百箇条」の「地頭へ対し強訴其上
徒党致し、逃散の百姓御仕置之事」では頭取の死罪をはじめ追放、所払い、過料(罰金)
など重い罰則となっている。江戸に出た六郎右衛門らは入牢となり、きびしい調べをうけ
たが、十二月には帰国を許された。しかし、代官所から「徒党強訴」の罪で捕えられた。
穴井父子は、死罪獄門、飯田は死罪、連合して要求を出した十五か村で四百五十人近くの
農民が追放、田畑屋敷取り上げ、過料に処されている。処刑された三人の首級は龍川寺
(りゆうせんじ)(日田市)の和尚がひそかに持ち帰り、葬った。宝暦二年(1752)の七回
忌に際して、あらためて供養塔を建て、法要が営まれた。この供養塔は今も残っている。
苦しむ農民の代表として一命を賭して行動を起こした六郎右衛門らは「義民」としてなが
く人々の尊崇を集めている。
出典
騒動の系譜