広瀬月化

(概要)
 広瀬月化に対する代官所の信任はきわめて厚く、虞瀬家の家業を日田代官所との中に確
定した人物であった。しかし、月化三十五歳の時、家督を弟三郎右衛門に譲り、自らは堀
田村に隠棲し、秋風庵を営み、俳詰三味の生活に入り、俗事から遠ざかった。

(文献)
広瀬家四代目当主、広瀬草荒。俳号秋風庵月化。遺筆四年生まれ。三代目広瀬久兵衛
の子で広瀬淡窓の祖父。俳人。淡窓ら兄弟4人による、「月化翁小伝」によれば、「性質端
正にして清潔を好玉ひ幼より老まで一言の盲語」なしとあるが、月化が如何に真面目で穏
やかな、極端に走ることのなかった人物であったかを端的に物語っている。淡窓に人格的
影響、及び物を学ぶことの大切さを教えたのがこの月化であった。
 また月化は広瀬家の家業を日田代官所との中に確定した人物であった。すなわち年十八
で代官揖斐十太夫の近侍となって寵愛を受けつつ家業を進め、代官の命ずるところに従っ
て、竹田、杵築、府内、対馬各藩の「用達」となった。用達とは代官所の命によって、日
田の信用ある商家が代官所と各藩との間に公用事務を取り扱うものを称する。各藩から世
話料として扶持米が給された。広瀬家は二世源兵衛の代から御用商人として代官所への出
入りが許されていたが正式に「用達」となったのはこの月化の代からであった。
 月化に対する代官所の信任はきわめて厚く、揖斐郡代は彼に「仲」の姓を与えて重用し、
月化が隠居して閑居の身となった後も、時の郡代羽倉権久郎秘球はしばしば彼を招くなど
親交を重ねていった。
                                
 月化が父久兵衛が隠居した跡を継いで第四世となったのは、安永元年(1772)、二十六
           
歳の時であったが、天明元年(1781)、三十五歳の時、家督を弟三郎右衛門(俳号桃秋)
に譲り、自らは堀田村に隠棲し、秋風庵を営み、俳讃三味の生活に入り、俗事から遠ざか
った。
 月化は文政五年(1822)七十六歳で秋風庵に没し、大超寺に葬られている。商売を家業
とする広瀬家の家業を安泰のものとし、さらには自らは文学の世界に入って、家業を若く
して第五世桃秋に譲った月化の進退は、まことに立派で、後人は広瀬八賢の第一に挙げて
讃えている。

出典
広瀬淡窓