広瀬久兵衛

(概要)
 鹿瀬庇久兵衛は、日田代官、塩谷大四郎にその人物をみとめられ、塩谷郡代の計画する公共
土木事業を推進する中核となった。小ケ瀬井路の開さくをはじめ、数々の土木事業を手がけた
後、天保三年、久兵衛は掛屋を仰せつかり、年貢銀を含む公金を預りこれを大名や天顔内外の
商人庄屋農民などに貸しつけた。

(文献)
                                       
 九州諸藩の御用達、庄屋・掛屋(かけや)、公共土木事業家、諸藩の経営コンサルタント。寛政
二年(1790)八月二日、豊後国日田郡豆田町魚町の商家博多屋三郎右衛門(俳号桃秋)の三男(次
男は早死)に生まれる。明治四年(1781)九月二十九日没。八十二歳。墓は大超寺境内に在る。
通称はじめ土五郎、ついで正蔵、のちに久兵衛。名は義貞(よしさだ)。字は士礼。俳号は扶木。
号は南。広瀬淡窓(たんそう)の弟。兄淡窓に代わって家業を継ぐ。少年のころから父に従っ
            ぷんか
て代官役所に出入りした。文化二年(1805)父に代って羽倉代官に従って岡藩を視察。当時博
多屋は岡杵築府内藩の御用達であった。文化7年(1810)二十一才で家督相続博多屋六代目。
        ぷんせい
 文化十四年着任、文政四年(1821)郡代に昇任した塩谷(しおのや)大四郎に、その人物をみ
とめられ、久兵衛は塩谷郡代の計画する公共土木事業を推進する中核となった。久兵衛が手が
けた最初の公共土木事業は小ケ瀬井路の開さくであった。前からあった大井手の上流上井手
村の小ケ瀬に井堰(いせき)を設け、玖珠川の水を多量に取り入れ、新井路をつくって十三か村
の田畑に水を送ろうというこの計画は、文政八年四月二十日に完成、通水する。この井路で十
三か村の水掛高は、米にして約千三百石増加した。
 次に、この井手の開通によって中城川の水量もふえたので、かねての懸案であった三隈川
通船計画が実行されることになった。久兵衛は中城川通船工事の計画と推進に当たり、出資
もした。文政九年、中城河岸に蔵所がつくられ、年貢米を関蔵所まで船で運ぶようになった。
中城川二十六般(そう)のうち久兵衛は十五膿の所有を許可された。
 その後郡代の豊前浜高家(はまたけい)、乙女(おとめ)、高砂(たかさご)、神子(みこ)山、伊
和保、南鶴臥豊後国東の呉崎(くれさき)等の新田造成推進、筑前恰土郡の千早新田の造成指
導、日田一玖珠間の道路改築等の工事にも当たった。これより先、天保元年源兵衛に家督を譲
る。

 天保三年(1832)久兵衛は掛屋を仰せつかり、年貢銀を含む公金を預り、これを大名や天領内外の
商人庄屋農民などに貸しつけた。同七年掛屋を源兵衛に引きつがせたが、博多屋の経営実権は久
兵衛の手中にあった。天保四年正月その身一代苗字御免、嘉永二年(1849)永代苗字帯刀御免となっ
た。

出典
広瀬正雄『贈従五位広瀬久兵衛伝