広瀬淡窓

(概要)                                
 私塾成宜園(かんぎえん)の創立者である。文化四年、淡窓二十六才の時に豆田裏町
に桂林固を完成させ、後に成宜園の塾舎とした。門弟数は三千余人、大村益次郎、高野長
英など幕末の逸材を多く輩出した。

(文献)
                                    
 儒学者漢詩人教育者私塾成宜園(かんぎえん)の創立者。天明二年(1782)四
月十一日、日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門(桃秋)の長男として生まれる。通称は幼
児寅之助、二十才を過ぎてから求馬。名は簡、後に建。字は廉卿、子基。淡窓は号で苓陽
青渓ともいう。

 弟に久兵衛旭荘(きょくそう)がある。安政三年(1856)十一月一
目没、七十五才。墓は日田市中城町長生園にある。註(おくりな)は文玄先生。長生園に広
瀬林外(りんがい)によって建てられた文玄先生之碑がある。碑文は淡窓の自撰になる
もので、自らの生涯思想門弟数(三千余人)、主要著書名が記されている。

16歳の春に亀井昭陽に入塾、約二年間在塾するが、病気のため日田に帰る。その後十九
才の春に病気が重くなり、数年間を療養に費やしたが、その後日田出身の熊本の医師倉
重湊の「自立して塾経営に当るべし」とのはげしい忠言にあって、二十四才の時成章舎を
設立、文化四年(1807)淡窓二十六才の六月豆田裏町に桂林園を完成させる。のちに
堀田村秋風庵の近くに桂林園を移築、成宜園の塾舎とした。
 塾生には大村益次郎、高野長英らがおり、幕末の逸材を多く輩出した。
出典
人物叢書 広瀬淡窓