日田商人の土木事業

樋口安左衛門(1756〜1808)               
  安左衛門は、日田郡石井村の出身で日田郡随一の豪農である。彼の代表的な事業は
 筑後に至る重要幹線道路であった筑後沿いの加々鶴新道の開設である。時の郡代羽倉
 権九郎の命により、文化2年(1805)に着工・完成している。彼の功績については、
 今も残る「加々鶴新道碑」(広瀬淡窓撰文,『増補 淡窓全集中巻』所収)に詳しい。
 文化3年には、高瀬・上野村らの庄屋らによって新道の東、筏場に眼鏡橋が架けられ
 た(県指定有形文化財)。


草野宗内(1778〜1852)
  豆田町の代表的豪商草野家(升屋)の当主(忠右衛門)。家業に励むとともに中城・
 堀田村庄屋、豆田町組頭などの公職を勤めた。彼の公益事業の第一は、小ケ瀬井堰と井
 路の開削である。文政6年着手、(同8年竣工)。広瀬久兵衛とともに行ったこの事業は、
 豆田など日田盆地の村々に良田を残すと共に、豆田からの通船が可能となり、中城川通
 船が始められた。また、塩谷郡代のすすめた新田開発(豊前宇佐郡・豊後国東郡・筑前
 恰土群)にも積極的に協力している。


山田常良(1798〜1859)
 隈町の代表的豪商京屋の出身、叔父半四郎(常澄)は隈町年寄、小ケ瀬井路開削や隈
 川通船事業の中心として活躍。父小三郎(経明)も父兄を助けて活躍するが大火の被害
 により経営に行き詰まる。困難に会った常良は、別家を起こす。
公益事業としては、日田と中津を結ぶ交通上の難所、伏木峠の石坂(森
 藩嶺)の改修に尽力する。嘉永3年(1850)石畳道として整備、その経緯は広瀬淡窓撰
 文の「石坂修知之碑」(後掲)に詳しい(県指定史跡)嘉永6年には樋口安左衛門の開発
 した加々鶴新道の取り付け道路にも石畳を敷き、整備す。


行徳元遂(1808〜1865)
  日田郡関村の眼科医、広瀬淡窓門下。天保飢健の後、自ら備蓄を始め、弘化3年(1
 846)その金を村役人に提出するなど弱者への配慮が強かった。大肥川の通行の支障を
 み、千原幸右衛門・広瀬源兵衛の協力を得、嘉永2年(1849)茶屋の瀬に石橋を築造。
 歌詠橋と名づく。同じころ、上流に豆田町の手島儀七が小月橋を架設。これも元遂の
 提唱。しかし、まもなく水害により歌詠橋は流失。元遂は金山道路の開設を図る。安
 政7年(1860)着工、文久2年(1862)竣工。行徳家住宅は、現存、国指定重要文化
 財。

出典
日田の先哲