日田掛け屋 八軒士
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(概要)
 日田の2大両町といわれる豆田町と、隈町では、日田の郡代、代官の保護を受け娼提と
称する商人達が誕生した。掛屋たちは、日田金と呼ばれる金融資本により大名貸しを始め、
九州一円に広く貸し付けた。しかし、幕末の幕府への献上金、明治の藩債処理などにより
莫大な資金が流出または回収不能となり没落していった。

(文献)
 江戸時代幕府直轄額の天領として、九州の政治的中心地でもあった日田。
 この日田の2大両町といわれる豆田町と、隈町では、日田の郡代、代官の保護を受け娼提
と称する商人達が誕生した。
掛屋たちは、日田金と呼ばれる金融資本により大名貸しを始め、九州一円に広く貸し付け
た。
 日田金とは、日田銀とも書き、その資本形成は、日田商人の自己資金畿内・九州各地か
らの資本投下に加えて助合穀銀・年貢銀をその他の預銀を含むとされるが、諸説がある。
日田金は二百万両あったともいわれ、そのうち百万両は大名貸であったとされる。

 日田八軒士と称して下記の家が有名であった。
 千原家
 広瀬家
 草野家
 手島家
 山田家(2軒)
 森家(2軒)

 千原家は小倉藩と関係が深く、大名貸し中心であった。広瀬家は、福岡藩と関係が深く
又自己資金が少なかったため、公金や各大名からの借入れなどで貸付経営を行なった。
 この掛屋から後に成宜園(私塾)を開いた広瀬淡窓、小ケ瀬井の通船をした久兵衛など
が輩出された。
 江戸時代中期以来貸付けによって多くの富を集積した掛屋商人たちは幕末の幕府への
献上金、明治の藩債処理、さらに明治新政府への献納金などにより現在の大分県の年間予
算を遥かに上回る資金が流出または回収不能となり没落していった。

出典
大分県の地名(平凡社)