岡田庄太夫(代官)

(概要)                                  せ
 岡田庄太夫俊惟は初代の四日市代官岡田俊陳(としのぶ)の子で、日田代官として二十
年間在任。助合穀で集めたお金を無利息で十年間で返却するという条件で、困った村々や
個人に貸し出したため、恩恵を受けた百姓が相当あった。しかし、年貢増徴を強行したた
め、十二か村の村人が救済を江戸幕府に直訴するという事件も招いた。

(文献)
 岩窟四年(1714)、日田代官所付きと天草代官所付きの領地は統合され、日田代官の支
配下におかれた。岡田庄太夫俊惟(としただ)は初代の四日市代官岡田俊陳(としのぶ)
の子で、日田代官として聾襟十九年(1734)の着任から宝替四年(1754)まで二十年間在任。
幕府の年貢増徴策を忠実に、かつ強力に実行し勘定吟味役に栄進した。
 享保の改革の方針に忠実にしたがって年貢増徴を強行するため、田畑の切添(拡張開
墾)を見つけて年貢をかけ、定免(じょうめん)を更新するたびに増免(年貢率を増すこと)
をおこなった。また、支配下の村々にある永荒(えいあれ)といって耕作できない場所を、
その面積と共に絵地図に記入して出させ、その開墾を強く指示し、いつまで開墾できるか
の見とおしを書かせて提出させた。但し開墾できない永荒は、その旨をはっきり書いてい
る。さらに新田畑として年貢を課していた部分の米大豆の生産高を村高に加えた。
          かんばう
 正規の年貢の他に寛保元年(1741)から五年間、支配下の村々の農民からその富に応じて
米雑穀などを取り集めた。これを助合穀(たすけあいこく)と云い其の集まったものを延
享2年に入札させて売り上げたお金を助合石(穀)銀と呼んだ。この助合穀銀を豆田、隈
両町の掛屋(かけや)や御用達などの商人に預けて利子を取り、元利の増大をはかった。
これらの助合穀銀の内相当額が無利息で十年間で返却するという条件で、困った村々や個
人に貸し出され七おるので、後の時代の百姓で恩恵を受けた者が相当あった。しかし俊惟
代官の時代には、助合石は年貢外の負担であり、凶年が続いたので農民にとっては不満で
あった。利息をとってではあるが商人に貸しても農民には貸してもらえなかった0
 日田郡城内筋の村々や玖珠郡の村を加えた十二か村の六百三十余人が穴井六郎右衛門
らに託した訴状で岡田代官の悪政を数え上げて、救済を江戸幕府に直訴した事件が起き
た。差し出した訴状に名を連ねた庄屋組頭農民は代官所に呼出され醸しい取り調べを
受けた。その結果雀撃三年十二月十六日幕府の命令で、江戸に直訴した穴井六郎右衛門
次男要助、馬原村草三郎の組頭惣次らは獄門と死罪、他の者たちは、田畑屋敷取り上げ所
払田畑取り上げ所払過料銭(額に多少あり)、その上に手錠三十日、叱(しかり)等の刑を
受けた。参加しなかった村々の庄屋は恩賞にあずかった。これを馬原(まばる)騒動とい
う。
 なお俊惟の年貢増徴策は九郎左衛門俊博、揖斐十太夫政優に受けつがれ、俊惟の場合
よりも高い免になっている。田高免は九郎左衛門の宝暦五年には八ツ三厘八毛、揖斐十太
夫の宝暦十年には八ツー分五厘八毛に達している。岡田俊惟代官によって始められた助合
石代銀の取り立ては、揖斐十大夫によってもおこなわれ、公金貸し付け政策も俊博政優
に引きつがれた。
出典
藤野保編『九州と天領』