塩谷大四郎(代官)
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(概要)                                 
 塩谷大四郎はして文化十三年、日田代官に任ぜられた。大四郎の第一の功績は小ケ瀬井
手の開整をはじめとする広範な土木事業である。その意を受けて、直接遂行の忠となった
のが草野宗内と広瀬久兵衛らである。

(文献)
 塩谷大四郎(しおのやだいしろう)日田郡代 経世家。
 通称、大四郎、謹は惟寅(これのぶ)文、正義、俳号を助廉(じょれん)、五村、呉村、
   めいわ             てんぽう
五損。明和七年(1770)六月十四日生、天保七年(1836)九月八日没六十七才。墓は東
京谷境山妙情寺にあるが、歯を埋めた碑が城町義朝弘上にある。法名、成善日道居士。
 大四郎は武蔵葛飾郡(現東京都)に粟津又左衛門の次男として生まれ、幕臣勘定方30
俵塩谷平四郎奉正の養子となった。
 かんせい
 寛政七年(1795)二十六才で家督を継ぎ勘定吟味方改後、丹後、但馬代官、摂津、播磨
                        ぶんか
代官、大坂堤奉行廻船兼蔵取締等を歴任して文化十三年(1816)閏八月二十九日豊後、豊
前、日向、の天領を治める日田代官に任ぜられた。
 日田代官となった大四郎は文化十四年、十月二十五日着任した四十八才で単身赴任。
ぷんせい
文政四年五月二十二日西国筋郡代に昇進して役料四百俵になる。大四郎の第一の功績は
広範な土木事業である。その意を受けて、直接遂行の忠となったのが草野宗内と広瀬久
兵衛らである。
 文政六年(1823)四月玖珠川の水を日田盆地に引く小ケ瀬井手の開整(かいさく)に着
工。文政八年四月から山田常澄らの力で隈川、十一月広瀬久兵衛、豆田中城川(まめだな
かじょうがわ)、文政七年から豊前、豊後各地の海浜に新田開発、浜高家(はまたけい)
新田、乙女新田、順風新臥高砂新田、郡中新臥神子山新田、南鶴田新田、北鶴田新田、
                                         てんぼう
久兵衛新臥岩保新田、など十三区域六百十八町、豊後高田市の呉崎新田百五十町開築天保
三年筑前恰土郡(いとぐん)冠(かむり)、文政年間の日田一玖珠間の道路改修、文政二年
陰徳倉、天保五年宇佐の盲人田など。

出典
日田の先哲:日田市教育委員会発行