石坂石畳道

(概要)
 急峻な坂道を16回も折り、ゆるやかな勾配にした全長1210mの石坂道。牛馬のために段
差をつけるなどの工夫もあり、ほぼ完全な江戸期の遺構としても貴重。県指定史跡。
鹿瀬淡窓が、施主の京屋作兵衛に感謝の念をこめ「石坂修治碑」を遺している。
(文献)
 日田は盆地であるため、盆地の外に出るには峠を越さねばなりません。四日市・中津方
面に向うこの永山布政所路の最初の関門が、伏木峠を登る全長約一三00メートルという
坂道でした。坂が急で悪路だったため石坂と呼ばれていました。坂が急で悪路だったため
石坂と呼ばれていました。日田を出発した人も、日田に帰る人もこの石坂では大変な難儀
をしました。この石坂を頻繁に往来する日田の人々は難儀を感じながらも、この伏木峠は
森藩領だったため、勝手に改修はできなかったのです。
 嘉永三年(一八五○)日田隈町(日田市)の掛屋、京屋作兵衛(山田常良)は森藩に願
い出て、石坂石畳を敷設する許可をえ、私費を投じて石坂改修に乗り出しました。これに
協力したのが財津村(日田市)の熊谷庄蔵で、世話人(監督)となって石畳を敷設しまし
た。石工は求来里村(日田市)の喜平と刃連村(日田市)の文七で、石組は周防国(山口
県)から招いた吉兵衛と永次郎が行い、全長一二一○メートルというすばらしい石畳道が
できあがりました。
 翌年の三月に広瀬淡窓が私費を投じて施主となった京屋作兵衛に感謝の念をこめ、世話
人熊谷庄蔵ほかの人々をねぎらって撰文し、掛屋の鍋屋森昌朋の書で「石坂修治碑」を九
十九折りの石畳道のほぼ中央部附近に建てました。

出典
江戸時代人づくり風土記