小ヶ瀬井手 

日田川通船の宰領を申し付けられた広瀬久兵衛は、玖珠川の水を小ヶ瀬から田島へ引
き、その水をさらに豆田の人工池へと流し、中城川に通船に必要な水量を確保しようとし
た。その結果、上井手村から十三力村(全て現日田市)に約120ヘクタールの新田ができ、
多くの田を潤すこととなった。
(文献)
 中城川は、日田盆地を流れる花月川よ豆田の集落一帯に水を引いていた河川であっ
た。しかし、花月川の水量は十分ではなく、日田盆地の中心部の田地は十分な水量を確保
できず、干害に悩まされることが多かった。
 時の郡代塩谷大四郎は、豆田の庄屋広瀬久兵衛に日田川通船の宰領を申し付ける。
しかし、三隈川の流れる隈地区での実現は容易であっても、水量の少ない中城川や花月川
の流域である豆田地区では困難であった。このまま通船が開始されれば、隈地区は繁栄す
るが、豆田地区は大きく取り残され、衰退することが目に見えていた。返答に窮した久兵
衛が、苦心の未見つけだした解決策は、玖珠川の水を小ヶ瀬から豆田へ引き、その水をさ
らに豆田の人工池へと流し、中城川に通船に必要な水量を確保しようというものであった。
 田島・城内への用水はかねてよりの懸案であり、塩谷郡代はこれを承諾。久兵衛は文政
六年(1823)、草野(升屋)忠右衛門らと小力瀬井手の開削に着手する。
 井手に関係する村をはじめ、日田郡五十力村あまりからの出銀(出資金)を得て、まず
上井手村小力瀬(日田市)に堰を設けた。その後、莫大な経費と労力を費やし、数々の難
工事を成しついに文政八年(1825)四月、小力瀬井手は一応の竣工をみる。そして翌
九年、豆田町の中城河岸から中城川を経て日田川の関河岸に至る通船が始まった。また、
小力瀬井手はその後も拡張・延長・修復などを繰り返し、天保二年(1831)に完成、
上井手村から刃連村、田島村、城内村、中城村など十三力村(全て現日田市)に百二十
町歩(約120ヘクタール)の新田ができ、多くの田を潤すこととなった。

出典   人づくり風土記・大分 日田川通船ものがたり