桂林荘跡
(概要)
 文化四年(1807)、広瀬淡窓によって解説された私塾。桂林園ともいう。   書
現在は桂林荘跡として公園になっている。

(文献)
 805年、淡窓24歳、初めて塾を開き成章舎と名付けた。淡窓の教育法の特徴は月旦表という
月ごとの学生の成績評価表である。この月旦表は最初から行われている。藩校にしろ私塾にし
ろ、試験はあまり行われず、中には全く無いものもあった。しかし淡窓は、学生の能力を日々
確かめ、評価しようとしたのである。
1807年、独立の塾として桂林園を建設した。この時期に淡窓独特の詩風が確立したとされて
いる。1817年、淡窓は桂林園を移築拡大し、自分の住居と書斎も建設した。そして塾を成宜園
と改称した。門弟3000人と称される、江戸時代最大の私塾が正式に船出したわけである。
 城町一丁目 文化四年(1807)から十年間にわたる広瀬淡窓塾の跡,成宜園に移る前のもの
で「休道」の詩はここでの作。現在は公園になっている。

 文化四年(西暦一八○七)五月に広瀬淡窓が豆田浦町(城町一丁目)に新に書塾を建て、これを桂
林荘または桂林園といっておりました。先生の居室は東六畳の間、その西に八畳(教室?)があり、土
間をへだてて十畳の部屋上下二重の二階建(塾生の寄宿舎)の家で、別に炊事場と便所はその傍に
ありました。
位置は慈頗山下を通って中城、港町を流れる小川のそばで、巾のせまい石橋が架っている所があり
ますが、その西側になります。
 なお塾舎の南に加藤公の社があって、樹木が生い茂っていたということです。「君汲川流我拾薪」の
有名な詩はこの実景から生まれたものです。

桂林荘雑詠示諸生(四種の一)広瀬淡窓
休道多郷多苦辛 道うことを休めよ他郷苦辛多しと
同胞有友自相親 同胞友有り自ら相親しむ
柴扉暁出霜如雪 柴扉暁に出づれば霜雪の如し
君汲川流我拾薪 君は川流を汲めば我は薪を拾はん

出典
日田の歴史と史蹟