大野老松天満社旧旧社殿
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(概要)                                
 人並みはずれて大きく力も強かった日田郡司大蔵永季は、朝廷より相撲節会に召し出さ
れ、他の力士と力くらべをして三勝した。永季はこれを神助によるものとして、故郷に帰
って老松嗣を建立した。この時代「津江七社」が建てられたが、大野老松社もその一つで
ある。国の重要文化財に指定されている。

(文献)
 豊後国史によれば、日田郡司大蔵永季は人並みはずれて大きく身の丈七尺余り、力も強
く鬼蔵太夫と呼ばれていた。豊西記に次のことが記されている。後三条院の敬三年
(1071)朝廷より相撲節会に召し出された。この時出雲の国から力士が呼び出された。力
は並ぶものがなかった。永季はこれと力くらべをして三勝した。そこで賞を賜り、その後
節会ごとに上洛した。
 永季は故郷に帰って、自分が力くらべに勝ったのは神助によるものとして、老松嗣を建
立した。
 その後活義四年(1180)後白河天皇の第二王子以仁王の侍臣長谷部信連が津江に隠遁し、
のち雪ケ嶽に城を築いたといわれ、その後‘猷五年(1194)、信連の養嫡義信が雪ケ嶽に
居城して以来、鎮守の神として崇敬深く、旧神殿はち羞葦う二年(1488)二月長谷部信安に
ょり再建されたといわれる。その後斐支十三年(1673)に修理されたことは上棟礼によっ
ても明らかである。明治十年(1877)別に神殿建築にあたり、旧神殿を西側に移築し、津
江郷の開祖といわれる長谷部氏を示巳ったが、明治十七年神職交替より、旧神殿での祭祀は
廃止された。
 明治三十四、五年頃、神輿殿が倒木のため破壊され、その代用として使われていたが、
現在は旧のごとく右側に神輿殿が建てられ旧神殿には像代を安置している。保存のため
鉄板茸で覆っている。
 (国指定重要文化財 昭和五十三年五月三十一日)
出典
前津江村志