大野楽

(概要)
 前津江村には民俗芸能として「楽」が古くから伝承されてきた。しかし、現在まで保存継承
されているのは大野楽だけであり、県指定無形文化財となっている。大野楽は河童の動作を演
技化したものである。

(文献)
@ 前津江村には民俗芸能として「楽」が古くから伝承されてきた。大野楽・赤石楽・津江入
 庭楽がそれである。しかるに諸種の事情により赤石楽は明治二十六年を最後に、津江入庭楽
 は大正十年に廃絶したが、大野楽は保存継承され昭和四十一年に県指定無形文化財となって
 いる。

 沿革
 大野老松社の宮柱本大野三苫家が明治初年火災にあい、大野楽に関する記録を焼失したら
 しく、大野楽の起源を明らかにする文献はない。
 「音楽由来」によると、八幡大菩薩(応神天皇)の御誕生を祝って津江庄三ツ竹信康が創始
 した。元弘元年(一三三一)の大干ばつの際に雨乞いの宮ごもりをしたところ、楽を奏せよ
 との神のお告げがあった。しかし、長い間中絶していたため楽を覚えている人がなかった。
 たまたま静安軒という人が伝えていたので、村人が伝習して楽を奏したところ、二夜三日間
 降雨があったと記してある。
 音楽由来の後半は、源平合戦に敗れた平家の残党が筑後川に沈み、その亡霊が河童となっ
 て牛馬に災いをしたので、河童を慰めるために楽を奏したとある。
 大野楽は河童の動作を演技化したものであり、奏楽についての記録は現在のこっているも
 の江戸中期の文化四年があり、明治以降の明治四年・六年・十三年・二十九年と大正二年・
昭和二年・二十七年・三十五年・三十九年・四十七年・五十三年である。

B 演技の大要
  早朝、奉仕者一同参列して、祈願成就報祭の祭典を行う。祭典終了後酒直会が終わると、
 鳥居の外に整列し隊列を組む。隊列の順序は、馬場開け・神幣・御鏡・宮司・責任役員・氏
 子総代・鳥毛(二本)・天狗(二面、鉾に面をつける)・賓銭箱・毛槍・挟み箱・通し者・笛・
 戸拍子・小太鼓・陣鐘・大太鼓・村童(ムラシコ)・薙刀・棒使い・巻物読みの順で、道楽
 を奏しながら、神殿に向かって、右側から左へ一周して、境内広場の所定の位置につく。所
 定の巻物読みは、正面台上から参列者に向かって、大野楽の由来を読む。由来記を読み終わ
 ると、庭楽を始める。庭楽が終われば、薙刀や棒使いの演技を行い、全演技が終了すると共
 に、再び行列を整え、道楽を奏しながら、下山して、地区の演技場に向かう。竹ノ上座目木・
 本村・道ノ下・下方・浦方の五祭組、それぞれの会場で同様に楽を奏し、打ち止めに神社の
 境内で、再び楽を奉納し、二日間の祈願成就報祭の祭典を終る。

 演技は、河童(カッ/て)の動作を演技化した村童(ムラシコ)を初めとして、陣鐘、笛太
鼓、戸拍子と玉音の拍子にあわせて舞う、村童の姿は可愛らしい演技であり又、奴姿で腰に
三色帯をまき、大音なひょうたんとキセルとズウラン(煙草入れ)をぶらさげて、演技を行
 う毛槍・挟み箱はひょうきんで面白い。_ 中でも祖先が遺した素晴らしい文化の伝承と思わ
 れるものは通し者(稚児)役である。二歳から五歳までの幼児を武者姿に着飾り出場する稚
児は、可愛らしく観客の目を引く。しかも一生に一度しか出場することはないであろう自分の
孫や子供のために、紙や布を利用し手作りで暇手間かまわず家族総ぐるみで互いに器用さを
 出し合って、鎧や兜を作る伝統は外に類はないであろう。

出典
民族行事と伝説