日田殿(どん)の話

 日田どん(大蔵の永李)の話です。相撲の神様として今日、日田神社に祭られている、
日田どんの話を昔話風にまとめてみました。
 ただ、この話のベースになっているのは、私が若宮小学校3?4年生のころ、当時の担
任だった江藤 弘先生から伺った話で、私の記憶も余りさだかでなく、あてになりません
から、若干伝わる昔話とは異なるところがあるかもしれません。
 記憶の曖昧な所などは、適当に脚色してありますが、昔話としてもあまりおかしくない
とおもいます。

[大蔵永李(おおくらながすえ)(日田どん)の話]
 今からおよそ900年位昔の平安時代、日田地方を治めていた大領(たいりょう)、大
蔵永興(おおくらながおき)に永李(ながすえ)という息子がいた。
 永李はすくすくと育ち、背丈は6尺以上というから、今でいうなら2メートル程もあ
り、力も強く、相撲をとっては、負け知らずであった。

 人々は永李の事を鬼太夫(おにたゆう)永李と呼んでいたが、気持ちのやさしく、正義
感のあふれる、少年であった。

 永李16才の時、京の都で相撲の全国大会が開かれる事になり、永李も日田地方の代表
として、自分の力を試す為に京の都へ行く事にした。
 相撲と言っても、当時の相撲は、今のプロレスの様なもので、相手が[まいった]と言
うか、どちらかが死ぬまで戦うといったものであった。

 京の都へ旅立つ事にした永李は、それに先だって、日田の氏神様である、[大原神社]
に、旅の安全と、相撲の試合に勝てる様にお参りをして、京へと旅立った。
 途中、光岡(てるおか)の萩尾(はぎの)(ピノキオセンターの有る所)の山裾を歩い
ているとわらじの紐がゆるんだので立ち止まってそれをなおしたそして立ち上がるとそこ
に、一人の童女が立っていた。

 いつの間にと‥・。ふしぎに思いつつ進もうとすると、「もしもし、あなた様は、も
しや、これから京の都に相撲の試合に行かれる、鬼太夫永李様ではありませんか?」と童
女が声をかけてきた。

 突然名前を呼ばれた永李は、大変驚いたが、振り向き落ち着いて「いかにも、私は鬼太
夫永李と呼ばれている者で、これから相撲大会へ京の都へ行くところですが。」と答え
た。

 童女は、「あなたの、相撲大会で一番の強敵の事は知っていますか?」と尋ねた。永李
は、「いいえ、初めての事なので、何も知りません。」と答えると、童女は、「あなた
は、決勝で[出雲の小冠者]と言う者と対戦します。この男は今まで負け知らずで、何度
も優勝しています。」と言って、出雲の小冠者の事を話始めた。

 話によると「小冠者がまだ母親の体内にいる時、母親が、(ガッチリとした力の強い人
間に育ちます様に、その代わり、私は毎日鉄の粉を食べて私の好きなウリを食べませんか
ら。)と言って出雲の神様に願かけをしたのです。

それで、出雲の神様は全身鉄の様に硬く、ガッチリとした体の男になる様にしました。
しかし、出雲の小冠者にも一カ所だけ弱点があります。と申しますのは、母親が、ウリ絶
ちの約束を破って、一度だけ好物のウリを食べたのです。
 お怒りになられた出雲の神様は、罰として、出雲の小冠者の額の所にわずか一寸(3.3
センチメートル)程に円く柔い所を作られたのです。

 出雲の小冠者に勝つすべ(方法)は、そこを強く押すしかありません」と教えてくれま
した。「ありがとうございました。」と頭を深深と下げてお礼を申しました。
 フツと気がつくと、目が醒めました。「なんだ、夢だったのか?」永李さんは、わらじ
をなおした後、ひと休みして、腰を下ろしたまま、ついついウトウトと眠むりこけてしま
った。

 いよいよ、戦い始めの合図の太鼓の音が、ドーンとなるが早いか、出雲の小冠者は、も
のすごい勢いで突進してきた。小冠者はすばやい動きで永李さんを攻める。永李さんも負
けてはなるかと押し立てるが、体が大きい分動きが鈍く、その間をぬって小冠者が、左脇
腹側について、足を掛け永李さんを倒してしまった。

 (今の相撲とは違うので負けではない)永李さんは、なんとかして、小冠者を捕まえよ
うと、やっきになって動くのだけれど、動けば動くほど、焦れば焦るほど、これまで負け
知らずの百戦錬磨の出雲の小冠者の術中にはまって、とうとう押えつけられて首を絞めら
れてしまった。

 永李さんは息が苦しくなって、意識がもうろうとしてきました。出雲の小冠者は、しめ
たとばかりに永李さんにまたがって、これでもか、これでもかとばかりに、ゲイグイとし
めつけます。目もうつろになった永李さんがふと、空を見ますと、青空の中に、一羽の白
鷺が飛んで来ました。フツと我に返った永李さんは童女の言葉を思いだしました。

 「額の三寸程の柔らかい所を強く押すしか、勝つすべは有りません。」そうだ、と思
い、苦しい中腕を伸ばして、下から、小冠者の額の三寸程の白い部分を押しました。
 すると、どうでしょう、今まで永李さんにまたがって、優勢を誇っていた、出雲の小冠
者が突然苦しみ出し、永李さんの首を絞めていた力が急に弱くなって来ました。
 永李さんは、態勢を入れ替え今度は、今までとは反対に上になって、出雲の小冠者の額
を力いっぱいに押し続けました。出雲の小冠者はとうとう額が割れ、血をタラタラ流しな
がら、息絶えてしまいました。

 こうして、永李さんは、やっとの思いで、強敵出雲の小冠者を倒し、日本一の相撲取り
になりました。会場は今までずっと優勝していた出雲の小冠者が被れたと言うことで騒然
となりました。やがて天皇の御前に召され、お褒めの言葉をいただき、「なんでも、そち
が望むものを、とらわすから、なんなりと申せ」と仰せられました。
 そこで、永季さんは、「別に欲しい物ありませんが、私がこうして勝てたのは大原八幡
様のお陰です。もし、本当にご褒美が頂けるのでしたら、日本一習字のうまい先生に書い
て貰って石の額に仕立てて下さい。」と申しますと、天皇はさっそく手配して、作らせ、
永季に賜れたそうです。

 今でも、その石額は大原八幡宮にあり、また、慈眼山(じげんざん)永興寺(ようこう
じ)にある兜ばつ毘沙門天立像(とばつびしやもんてんりゆうぞう)は、永李さんの姿を
写したものと言われています。
 また、今では、余りいませんが、30年頃前までは、慈眼山一帯には多くの白鷺がコロ
ニーを形成していて、いつも白綿をかぶっている様にたくさんの白鷺がいました。
 そして、慈眼山下の日田神社には、歴代の相撲取りが寄進した、石柱がたくさんあり、
中津出身の名横綱双葉山も横綱になって、奉納の土俵入りを披露しました

出典
「日田地方の昔ばなし」(NTT日田電報電話局編集委員会)