鷹城

 昔、慈眼山の山頂に「鷹城」というお城がありました。今から、おおよそ千二百年近く
昔のこと、大蔵永弘という人が、慈眼山に城を築き、日田地方をはじめて治めることにな
つた。
 その頃、慈眼山のあたりは有田郷のうちで、日田郡のことを「日鷹郡」と呼んでいた。
その日鷹の地名に因んで城の名を「鷹城」と名付けた。その頃、鷹城の大手門を中心に、
左手に永興寺、右手に大蔵館があった。
 大手門より山頂へ向って、急な石段をまっすぐ登ると、日田三望郷の一つといわれるだ
けに、眼下の眺めはすばらしく、山の西の涯下には、白布を流したような花月川が流れ、
山の後には今もなお、調練場、本丸跡、古城と、いかにも城があったことを偲ばせる地名
が残っている。
 鷹城は外観こそ平凡な平地の上の平城であったが、その名のように鷹をかたどって造ら
れた城で、守るに易く、攻めるのに困難だった。
 ところが、藤原、鎌倉、室町時代と、初代永弘より二十六代続き約五百数十年間にわた
って栄えた鷹城も、南北朝の動乱に巻き込まれ、永興寺、大蔵館共に、北朝方に焼打ちさ
れ、火のいきおいが激しくまたたく間に炎は城の崖をかけ登り、さしもの難攻不落とたた
えられた城も、とうとう焼け落ちてしまった。
 その時、寺にまつられていた、十一面観世音像や、桧の一木造りの毘沙門天三躯、当時
はさぞかし鮮やかだったろうと思われる、彩色された、四天王像四躯は無事難をのがれ、
千年以上もの月日を重ね、今もなお立派な姿で慈眼山の観音堂の中に安置されている。
 この八躯の仏像は、どれも国の重要文化財に指定されている。
 城山は今頃、木々がおい繁り、静かなたたずまいで鐘つき堂の鐘の音が、日田盆地を流
れ、昔から多くの文人、墨客たちの詩や絵の心をさそわずにはおかなかったようです。
 永興寺の山号を慈眼山といい、今では城山全体を慈眼山と云って、人々にしたしまれて
います。

出典
「日田地方の昔ばなし」(NTT日田電報電話局編集委員会)