日田温泉

(概要)
 日田では温泉掘整が昭和27年頃から始められ、その後数度に渡りボーリングを行い温泉を湧出させた。
昔より子宝温泉として親しまれている日田温泉だが、その他に屋形舟や鵜飼見物なども楽しむことがで
きる。

(文献)
 「水郷日田」の呼び名で親しまれている日田の町。年間およそ240万人の人々が、昔そのままの天領
の町並みや、小鹿田焼、そして日田温泉に想いを馳せ、訪れます。
 日田温泉は昔より子宝温泉として親しまれており、単純泉で、リウマチ、神経痛、疲労回復をはじめ
現代人のストレスなどに効用があります。
 日田温泉でのもうひとつの楽しみは、何といっても屋形舟。天街時代の表替な舟遊びをそのままに、
暮れなずむ三限川のロマンチックな情景の中で、鵜飼見物とともに夕食が楽しめます。それぞれの宿々
に伝えられた日田温泉ならではの舟遊びです。

  ※屋形舟と鵜飼は5/20より10/未まで。(日田観光協会・日田温泉旅館組合パンフレット)
 水郷日田は夏の観光地で、春四月頃から秋十月頃迄に多くの観光客を迎えるが、霜のおりる頃から春
風のそよぐ頃まではシーズンオフの冬枯れの観光地であった。
 関係者が集まると、冬枯れの日田をなくするには、温泉が是非必要だと・・・…永い間切望していた…
P34 日田市では、水郷日田に温泉の湧出をみることが出来たならば、文字通り鬼に金棒だといふので昭
和二十三年二月頃から約ニケ年にわたり、京都大学附属別府火山温泉研究所に依頼して、学問的科学的
(井戸水分析、泉脈の電気探査)に調査して貰った、其の結果、市内地下に、推定断層泉三本の存在が
確認された、そのうちの二本は三芳小学校前附近のどこかで交わっておるとのことで、市費壱百万円、
寄附金六拾万円、計百六拾万円で、コーアポーリング(下関市東邦地下工機会社)による温泉掘蟄が昭
和二十七年一月に始められ、同年三月未予定の二百米に達したが、温度は二十二度内外で遂に待望の温
泉湧出を見ることが出来なかった。

 昭和二十七年二月には、市内有志が再び、川原町照蓮寺境内の旧温泉孔を約百二十米掘って泉源温度
三十七度の、無色透明な炭酸泉に掘り当て、同年十一月には対岸ゐ銭淵橋の畔に、湯をひき、日田ヘル
スセンターを始めたが、惜しくも昭和二十八年六月の大洪水で、根こそぎに流されてしまった。
 昭和二十九年七月、市、観光協会、旅館組合は九州電気夜明ダムの補償金約弐百万円を投じて、三隈
川畔の一角にボーリングを始め、幸運にも十二月には百二十米程度掘って、泉源三十七度の炭酸泉の泉
脈に掘り当てた、湧出量もまあまあとゆう程度で、川畔の旅館街にいくらか湯の香が漂いはじめた。
 昭和三十年?頃から、筑後川を水害から守る直轄河川工事が大大的に始められ、京町一帯の河川敷地
の一部が日田市に払いさげられた。
 日田市は先に微温水の湧出していた京町附近をボーリングすれば、必らず温泉が湧出するであろうと
想定して、壱千万円近い巨費を投じてボーリング機械を購入して、日田温泉第一号を掘った。(日田観光
開発会社内)

 昭和三十五年十月未遂に成功した。坑底で五十四度、湧水が多いために地上で四十一度毎分二百二十
七立方米の湧出量である。
 此の一号泉に気をよくした日田市では、昭和二十九年十二月三十七度の湧出をみた三隈町旅館街の一
角に第二号泉をボーリングした昭和三十六年五月末、六百四十四米掘って坑底四十四度、地上三十九度、
湧出量毎分四百六十立方米で成功、早速観光旅館に湯を引いて、お客を喜ばせた。
 浴場にコンコンと湯を流すには、量がたらないと言うので、第三号泉を川原町照蓮寺東隣にポーリン
グした、坑底四十一度、地上三十三度、湧出量二百四十立方米で、昭和四十二年三月末日に終了した。
 何れも単純温泉で無色透明、無味無臭、幾らかアルカリ性を帯びているので皮膚がヌレヌレする運動
系傷害や疲労恢復に特効があって、神経衰弱興奮型、ヒステリー、等にもよろしいといわれている。
 旅館街一帯が常に湯の香が漂っている、原鶴、天ヶ瀬、宝泉寺、杖立のようにはなるまいが、待望の
湯の町水郷日田が新に生まれたことにはまちがいない。( P33〜p35)

文献
日田観光協会・日田温泉旅館組合パンフレット・日田観光