大山の下駄挽き

(文献)                                
 日田では天保年間の日田代官による桐栽培と下駄製造の奨励により下駄製造が盛んで
あった。大山では下駄に適した材の取れる山を買い、伐採製造に従事する「山下駄挽」が
多く、徒弟制度により下駄づくりの技術が伝承されていった。
(概要)
 豊富な木材供給を背景に日田では下駄製造が盛んであった。日田の下駄製造の歴史は天
保年間(1830〜44)の日田代官による桐栽培と下駄製造の奨励までさかのばる。
 明治初年には杉材を利用した「打ち割り下駄」がつくられはじめ、明治三十六年の天狗
巣病流行による桐の全滅により、素材は松材や杉村にしだいに転換されていった。
 戦後は広島県松永や静岡県と並んで木履(下駄を含む)の三大産地となったが、生活様
式の変化に伴い、木履業は昭和二十年代からしだいに衰退を始める。
 大山町も日田の影響を受けて、下駄挽きが盛んであった。
 職工は下駄挽きと呼ばれていた。下駄職人には、下駄に適した材の取れる山(山の木)
を買い、そこで寝起きして伐採製造に従事する「山下駄挽き」と材料を購入して家で仕事
をする「家下駄挽き」とに分かれていた。日田では「家下駄挽き」が多く、大山では「山
下駄挽」が多かった。
山下駄挽きは、杉山の杉を買い、約一年ごとに山を移動し、三〜四人で組んで、山小屋を
建てて仕事をした。技術伝承は徒弟制度で、弟子期間は二年間ほどであった。弟子入りす
ると、親方や仲間の弟子たちとともに山小屋で寝泊まりした。最初は飯炊きに御茶上げ(御
茶汲み)からはじめて、少しずつ下駄づくりを学んでいった。
出典
大山町誌