大超寺

(概要)                                 
 大超寺は元和四年八月に上棟。大壇那の源朝臣石川主殿頭敦高公の協力によって出来
た。その後、百三十余年を経過して堂宇が荒廃してきたので、第十六世?昔風山上人は鉄
鉢を持って月に3回、七年に及び風雨寒暑を厭わず豆田・隈両町を巡り喜捨を乞い、一銭
一粒を積んで貯えること二百両余を得るなどして再建に着手したという。
豆田の掛屋、鹿瀬家のほだい寺であり、鹿瀬久兵衛の墓がある。

(文献)
本願山弥名院大超寺
 浄土宗
 大超寺の縁起については、長崎の有名な画家で度々日田に来て長期間滞在したこともあ
る木下逸雲が、安政六年(一八五九)書き残した板の記録によって知ることが出来る。
 大超寺は元和四年(一六一八)八月上棟。開山は深蓮社信巻上人頓公大和尚。大壇那の
源朝臣石川主殿頭敦高公(忠総・日田城主=元和二年一寛永十年)の協力によって出来た。
寛文八年(一六六八)第五世頓巻上人が再修し、享和四年(一七一九)第八世行者上人が
瓦葺きに改めた。既にして百三十余年を経過して堂宇が荒廃してきたので、第十六世?書
風山上人は再建の志を立てた。上人は鉄鉢を持って、月に三回、風雨寒暑を厭わず豆田・
隈両町を巡り喜捨を乞い、一銭一粒を積んで貯えること七年に及び二百両余を得た。門徒
総代広瀬嘉貞(久兵衛)等が門徒に謀り、広瀬両家の二百余両を筆頭に六十余名で七百余
両の募金をおこない、上人の二百余両と併せて合計九百余両を以って大超寺の再建に着手
した。安政四年(一八五七)十月、工事をはじめ翌五年三月下旬落成を見た。
 昭和五十八年門徒の浄財約六千万円を以って、本堂の大修理に着手し、翌五十九年五月
二十七日落慶法要が盛大におこなわれた。
広瀬久兵衛の墓
出典
日田市寺院等調査録・現地調査