長福寺

(概要)                                一
 天正12年、山城守は、筑前の国へ至る道筋、御本尊阿弥陀如来の御絵像を拾ったのを
きっかけに、法名を号し城内村に庵居した。慶長12年西本願寺推知上人に謁し、弥陀木
像及び長福寺の号を授受し、三奈木に堂を建立する。その後、栗山大騰が領主となり日田
郡に来た時、暴風雨となり、城内村の庵に御本尊をおさめ、長福寺と号した。

(文献)
山号寺名
照雲山長福寺

宗 派
真宗大谷派

 縁起(由来・開基等)
 天正十二年(一五八四)大友氏の政乱あって、幕下の武内山城守は、秋月種実に随い、
黒田如水に仕えんとして、関村の東方、波木山という所にて、馬の蹄に、金石の響をなす
ものが当り、山城守が、馬を下りて開き見ると、浄土真宗の御本尊阿弥陀如来の御絵像な
り。是れ即ち、出家発心して、浄土往生を願うべしとの大悲の仏勅なりとて、にわかに馬
を返し(その後、この地を旗返という)撃髪を剃除して法名を宗栄と号し、城内村に庵居
せしものなり。
 第三世安誓の代、慶長十二年、西本願寺准如上人に謁し、弥陀木像及び長福寺の号を授
受し、三奈木に堂を建立するも、元和元年大坂落城後、黒田長政、筑前の国に就き、栗山
大勝が領主となったが、大膳、性素剛勇のため、筑前を去り、日田郡に来た時、暴風雨と
なり、城内村の庵に御本尊をおさめ、長福寺と号した。
出典
日田市寺院等調査録