永興寺

(概要)
 永興寺の開基は新羅の僧智元で、延久年間に、日田郡大徳大蔵永季が、父永興を弔うために建立した
と伝えられている。大蔵氏との所縁がある仏像八体が所蔵されており、その中の十一面観音は33年ごと
に御開帳され、国重要文化財指定である。

(文献)
永 興 寺
 開基は新羅の僧智元で、延久(一○六九〜七二)年間に、日田郡大領大蔵永挙が、父永興を弔うため
に建立したと伝えられている。代々大蔵氏の尊崇をうけて、所蔵の仏像八体も、大蔵氏との所縁を物語っ
ている。

木造十一面観音立像  像高九二糎
 永興寺の本尊で、鎌倉期の作である。全体としての均斉、刀法の冴え等、名作といわれている。光背・
台座は後補。

木造兜政毘沙門天立像 像高ニーセ糎
 大蔵永季が延久三年(一○六七)、十六歳で都の相撲の節会に召された時に、神仏に祈願して出場し、
強敵出雲小冠者を破ることができた。それで帰国ののちに、自分と等身大の毘沙門天を造立安置したも
のと伝えられている。槍材の一木造りで、ところどころ矧木を用いる。彫眼で頭に堅甲をいただいてお
り、右手に宝棒をとり、左手に宝塔を捧げ、腰下に纏衣している。顔丸く肥満形で、藤原期の作と見ら
れている。

木造毘沙門天立像  像高一六○糎
 頭と胴は一本で掘り、両腕や背面に矧木を用いており、眼も彫眼である。また踏まえられた邪鬼も、
同じ一木で、着色の跡が残っている。鎧衣が体身に密着し、刀法も細密で、よく実態の形像を写し出して
おり、彫技もすぐれて藤原後期の様式を示している。平安時代末期に大蔵氏一族が発展していたころの
ものであろう。

木造毘沙門天立像  像高一六七糎
 槍材の彩色像で、胎内の胸部から腹部にかけて
文治三年苧慧五月二十八日己巳大蔵永秀生年三十五
の胎内銘がる。永秀は永季の曽孫にあたり、寿永二年平家が木曽義仲に追われて太宰府に落ちて来た時
に、櫛崎城によって平家勢の侵入を防ぎ、さらに緒方三郎、臼杵次郎等の豊後武士団とともに大宰府を
攻めて、九州から平家を追い落とした勇将である。後に頼朝からあつくその功を質された。文治三年(−
一八七)一壇ノ浦の戦の翌々年一仏恩に感謝の念から奉納したものであろう。頭部と胴は一木造りで、
背面と両手を矧いだもので、眼は彫眼である。鎌倉初期の作である。

木造四天王立像
 四体の中の三体には、胎内背部にそれぞれ次の銘がある。
持国天      像高一○一・五糎
 南都興福寺大仏師康傑作 小仏師子息康成
増長天     像高一○四・五糎(銘なし)
広目天      像高一○六糎
  南都興福寺大仏師康俊作 小仏師子息康成
俊慶元亨元年カノト十月十七日
        ノ 酉
同俊慶 元亨二年七月 日
多聞天      像高一○六糎
 南都興福寺大仏師法眼康俊作 小仏師子息康成 俊慶 元亨元年
カノトノ 酉
十月十日
 これらの胎内銘で四天王像は、元亨元年(一三二一)から翌二年にかけて、奈良興福寺の三人の仏師
によって作られたことがわかる。四体ともに槍材の寄木造りで、首は挿首であり、眼は玉眼であったら
しい(現在は彫眼)。この頃大蔵永貞は岳林寺を建立し、その子永敏は岳林寺に釈迦三尊像を寄進してい
るが、ともに大蔵氏の繁栄を物語っている。
 文安元年(一四四四)郡司職大蔵氏が断絶し、姻戚関係から大友氏が郡司職をついだが、これも天文
十七年(一五四八)に亡んだ。その上戦国時代の動乱や大間検地等は、永興寺に大きな打撃を与えたが、
江戸時代も永興寺諸仏への信仰はつづけられ、殊に十一面観音は三十三年ごとに御開帳をして信者の参
詣が行われた。昭和二十五年八月二十九日 国重要文化財指定

出典
日田市史