三隈川通船

(概要)                                ≠
 享保一八年に始まった長崎廻米は元文三年から閑浜河岸が利用されるようになり、そ
の輸送量は一万六千石に上った。この増大に対処するため文政七年塩谷郡代のとき山田半
四郎らにより隈町の竹田河岸から直接下る通船、同九年広瀬久兵衛らにより豆田町の中城
河岸から中城川を経て日田川の関河岸に至る通船が始まった。

(文献)
 三隈川はは現在の一級河川三隈川の日田盆地における歴史的呼称。
 天和期(1681−84)に筏流しが行われていたとされ享保一九年(1734)には代官
尉脈拍が取締り、免許を与えた者には幟を立てさせたという(相良家文書)。「広益国
産考」には材木筏およそ三千腰、竹筏およそ五百般とある。水運は延享期(1744-48)
に筑後国境の関河岸が開かれ、下流筋の通船の起点となっていた。享保八年に始まっ
た長崎廻米は当初日田から豊前中津湊まで陸送していたが、元文三年(1738)には関浜河
岸が利用されるようになり、その輸送量は一万石で、文化三年(1806)には一万六千石に
上った(「通船願書」広瀬家文書)。この増大に対処するため同七年より上流からの日田川
通船を隈町の森伊左衛門が申請したが、豆田町の反対にあった(同文書)。文政七年(1824)
塩谷郡代のとき山田半四郎らにより隈町の竹田河岸から直接下る通船(「森家永代記」伊
東家文書)、同九年広瀬久兵衛らにより豆田町の中城河岸から中城川を経て日田川の関河
岸に至る通船が始まった(広瀬家文書)。両河岸ともに川舟二十六膿で、うち山田家は二
○膿、広瀬家は十五膿を所持していた。天保三年(1832)通船の船稼株仲間が結成され、
掛屋による通船の独占化が始まった。こうした通船中心の輸送は明治四年(1871)の長崎
廻米の廃止により変化するが、明治期の河岸場としては隈河岸が寡占的になり、同三十七
年には県下一の取引額であった。大正五年(1916)筑後軌道が日田まで開通したことに伴
い水運は衰退した。
出典
日田市史