中城川通船

(概要)                                 草
 江戸時代後期において日田盆地の周辺では、多くの土木事業が行なわれている。その中
のひとつが羞指町を流れる苛漸Fの通船である。玖珠川より水を引き込み中城川へ流す
ことにより、隈町だけが水の恩恵を受けるのでなく、豆田町にも利点があるようにした。

(文献)
 江戸時代後期において日田盆地の周辺では、有力商人たちの資金を導入して多くの土木
事業が行なわれている。
 その中のひとつに豆田町を流れる中城川の通船があった。この川は、豆田町の掛屋、
掛、(学者、広瀬淡窓の弟)によりなされたものだが、この工事の背景については
以下のことがらが伝えられている。
 当時の日田は、日田両町とされる豆田町、隅町とが互いに競い合い発展してきた。
 その頃の筑後川(三隈川)は、急流であり、日田の物資を筑後川下流の久留米などに運
ぶには、険しい山道の夜明けの関まで陸路で行かねばならなかった。
この通路をより命じられた広瀬久兵衛は豆田町を流れる中城川の通船(玖珠川より水を引
き込み中城川へ流す)も合わせて行なう事を提案し採択された。
 これにより隈町だけが、水の恩恵を受けるのでなく、豆田町にも利点があるようにした。
又、その水は、水不足で悩む田島、城内の方を回り、引くよう計画された。難工事の未、
水路は建設され、水の流された中城川には、所々に水門が設けられ、この水位の調節によ
り、川下りだけでなく川上りもできるようになっていたという。
出典
日田川通船物語、日田郡の文化財