中城河岸

(概要)
 文政八年(1825)塩谷公の許可をうけた広瀬久兵衛や草野宗内らが中心となり、小ケ瀬井
手が中城川と合流する附近に荷物積込みのため河岸を建設した。川幅は広く御米蔵所や御
計家などが建ちならび、港として栄えた。今では河岸は見られないがその名残を碑や、銘
板に見る事ができる。


(文献)
 広瀬久兵衛、草野宗内らにより開削され、通水した小ケ瀬井手。この井手は農業用水と
しての水路という一面と、中城川に注ぎ込み、豆田の町と夜明けまで舟運を開くという役割も
になっていた。

大原神社のひょうたん他に入り左に曲がっていく井手は、港町付近で中城川と合流する。
港町は、かつてはその名の通り港であり河岸があった。
 今では河岸は見られないがその名残を碑や、銘板に見る事ができる。
 この河岸には日田郡内の年貢米輸送のため二十六膿の川舟が用意され、竹田河岸からの
通船とともに関村(夜明)の蔵所まで舟運(当時の日田川通船)をしていました。
 文政八年(1825)当時の西国筋郡代塩谷公の許可をうけた広瀬久兵衛や草野宗内らが中
心となり、荷物積込みのため河岸が建設され、川幅は広く御米蔵所や御計家(年貢米計測
所)などが建ちならび、港として栄えていました。
 現在の港町の町名が、これに由来するものです。
 昔は道路が悪く、そのため百姓は長い間年貢米の輸送に苦しんで来た。そこで塩谷公は
文政八年(1825)広瀬久兵衛に命じて、中城川筋普請工事を始め、同年十二月末に完成した。
更に翌九年十一月には、下中城村の橋ぎわに御米蔵所並びに御計家を建てこの附近の川幅
を広くして港とした。この川岸には二十六彼の船があって、日田郡内の年貢米を閑(夜明)
の蔵所まで輸送し、以前に比べ画期的に便利となった。港町の名はこれに由来するもので
ある。

出典
港町銘板・日田玖珠の歴史