御前岳

(概要)
                                    
 もともと御前岳とは筑後側からの呼び名で、豊後側からは権現岳。田代岳とも呼ばれて
いた。その姿はすばらしく、津江五山の第一の霊場でった。

(文献)

 権現岳ともいう。もともと御前岳とは筑後側からの呼び名で、筑後志などには御前山と
もある。一方豊後側からは権現岳。田代岳とも呼ばれていた。
権現岳というのは、山頂と中腹に嗣があって、貰捕高とと崩鞘揃匙を祭り田代権現と
呼ばれていることからこの名がある。
 日本書紀の景行紀に「到八女県則越前山」という文句がある。景行帝が八女県より前山
を越えたというのであるが、この前山がすなわち御前岳である。

この時田代の村人たちが、権現のお告げによって舞楽を奏して天皇を慰めたのが、津江入
庭楽(田代楽)である。
御前岳は高さにおいて釈迦に少し劣るが、その姿はすばらしく、古くは釈迦岳以上に知ち
れていた。豊後国志に、この山をたたえて「峰は鋭く削ったようで、高く雲表に出る。.頂
からは豊筑肥六州が手のひらの上にあるように見える。この郡の鎮めである」といってい
る。
 頂上は三十平方メートルほどの平地となり嗣がある。中腹に大きな岩室があって、ホラ
貝が納めてあったが、現在は下宮の御前嶽神社に奉納してある。
なおここには景行帝の「腰かけ石」もある。権現岳は津江五山の第一の霊場でった。.
阿蘇系の山伏たちがゴマを修したところである。前記ホラ貝はこの時代のものであろう。

出典
大山町史。日田郡の文化財