御前嶽神社

(概要)
 本社は古くより鎮座し、上官・中宮
老人や子どもは参詣ができないので、をはるかに礼拝する。

(文献)
祭神
 上官一大山祇命(御前嶽頂上)
 中宮一木花開耶姫命(中腹岩屋)
下宮(至宝雷霊姫命(田代部落)
・下宮の三殿がある。上官・中宮は参道がけわしく
下宮でのきまった期日の祭礼は朔望で、上官・中宮
(御前嶽についてP6)
由緒
 本社の創建は詳かでないが古くより鎮座し、上官・中宮・下宮の三殿がある。上官は権
現嶽の絶頂海抜一二一○メートル、するどく削ったような高所にあって大山祇命を祀り、
中宮は山腹の広い岩洞にあって木花開耶姫命を祀り、下宮は田代部落にあって上官・中宮
の二柱の神を祀る。
 上官・中宮は参道がけわしく老人や子どもは参詣ができないので、下宮でのきまった期
日の祭礼は朔望(月の一日と十五日)で、この日上官・中宮をはるかに礼拝する。春秋の
大祭の時は酒肴を持って壮年の人が上官・中宮に参拝する。昔から上宮を王の宮、中宮を
山の宵といい伝えている。
 明治維新前は山伏が峰入りし修行の霊場として中宮岩屋に宿っていた。数十目滞在中に
死亡者があって埋葬した所がある。女貝・男貝という二個のホラ貝がある。また大きな石
斧があり、中宮の神体として示巳ってある。享和三年(一八○三)に岩屋の中に小さい嗣を
建てた。この岩屋は数十人がはいるはどの洞窟である。下宮は何度も改築したが現在のも
のは明治二十二年に改築したものである。(御前嶽についてP7)

創建
 下宮の創建時期は、筑後志に「筑後国黒木の猫尾城主黒木大蔵大輔助能は、嘉応元年(一
一六九)に田代現権を勧請して黒木村(現在の黒木町)の産土神とする」と記してある。
これによると黒木助能が田代権現の分霊を、黒木村の氏神としたのは今より八百十七年前
のことであるので田代権現の創建はこれよりさらにさかのぼることになる。少な目にみて
も八百二十余年前と思われる。すなはち平安時代の末期の創建ということになる。
 津江山嶺主津江長谷部氏(俗に津江どんという)が鎌倉の中期に、津江の各地に七つの
神社(大野・赤石・柚木・宮園・八所・中村・浦)を創建し、室町時代の中ごろに神社名
を老松大明神と名づけたので、津江の人々は老松社の氏子となったのである。ところでこ
の時すでに田代には、御前嶽神社が建てられていたので、田代部落の人たちだけは老松社
の氏子ではなく、御前嶽神社の氏子となり現在に至ったものであろう。
                          (御前嶽についてP22・P23)
・上官 高い山の頂上であるため風雪がひどく社殿のいたみが早い。しばしば再建したが
   現在は社殿は建っていない。(御前嶽についてP12)
・中宮 御前嶽中腹の岩屋に嗣があり、木花開耶姫を示巳ってある。これが中宮である。嗣
   は何度か造りかえた記録があるが、これまでの詞が損傷がひどかったので、佐藤
   春雄氏が昭和五十七年の春祭りに新たに安置した。岩屋の向きは南向きである。
岩屋の入り口の高さは三、五五メートル、中間の天井の高さ二、五メートル、門口十四メ
ートル、奥行きが八メートル、奥に行くにしたがって天井が低くなっている。奥の方に湧
き水や天井からしたたるしずくがたまった池がある。岩屋は数
十人がはいるほどの洞窟である。洞内には木花開耶姫を祀る嗣のほかに、釈迦の石像(寛
政三年=一七九一奉納)、平たい石に釈迦像を陰刻(像を凹形に彫りこむ)したものが四
体奉納してある。(御前嶽についてP13)
・下宮 下宮(遥拝所)は田代部落にある。現在の神殿は明治二十二年の再建である。
   下雷神殿の脇に楽庭跡がある。楽庭跡は楽を奏した庭跡のことである。御前嶽神
   社には古くから伝わる雅楽があって津江入庭楽または田代楽とよばれている。景
   行天皇巡幸の際、里人がこの楽を奏して神慮を慰めたのであるが、玉座(天皇の
   御座所)跡に神殿を建て、その直前に楽庭といって楽を催した庭三畝ばかりの芝
   地がある。現在は杉木立になっている。(御前嶽についてP17・P19)

ダゴ投げ祭り
 当社(下宮)では毎年十月八日に「ダゴ投げ祭り」を行っている。この「ダゴ」は稲掛
けの米で作った直径三享ンほどの団子で、焼き米を梅(つ)いた時のわらにササ葉を敷いて
包んだものである。
 田代氏子の各家はこのダゴを持ち寄って、神殿に供える。神事をしてお祓(はら)いの
後、あらかじめクジで決めていた男性二人が、拝殿から参拝者に向かってダゴを投げる0
                              (豊後の神々P33)
出典
御前嶽について・豊後の神々