大原八幡宮

(概要)                                
 日田盆地の東部に延びる丘陵の西端に鎮座する。天慶元年大山川・玖珠川の洪水により
惣門が流失したが、門から社殿まで十余町あったとされる。大原八幡宮御田植祭は県指定
無形民俗文化財であり、また大原八幡宮銅鉾も県の文化財に指定されている。

(文献)
 日田盆地の東部に延びる丘陵の西端に鎮座する。祭神は誉田別尊・比売大神・大帯姫尊。
旧県社。大原宮・大原八幡嗣・大原山八幡宮・大波羅神社などともみえる。岩讃諜皇九年
(681)刃連郷岩松ケ峰(現天瀬町馬原の山)に八幡宮の来現があり、これを祀ったと
いう(日田造領記)。これが同所の鞍形尾神社であるが、貨窟十三年(871)大蔵永弘
が求来里の大原に社殿を建立、神宮寺もこれに伴い創立したと伝える。(豊後国史)。実智
元年(938)大山川・玖珠川の洪水により惣門が流失したが、門から社殿まで十余町あ
       
ったとされる。承保元年(1074)郡司大蔵永季の時に放生会が始まったという。豊
後国守護大友氏の尊崇が厚く、豊西四郡の惣社として大原宮を定めたとされ、神宮寺にも
大般若経を寄進したと伝える。諾ぎ二年(1312)二月十五日の木造善神王像胎内名
には大原宮とみえ、地頭永貞と記される。鶴誌二年(1351)一色範氏は当社に筑前夜
須庄(現福岡県夜須町など)の田地五十町などを寄進、戦勝を祈願したという。日田大蔵
氏とこれに続く日田大友氏の没落に伴い衰微したとみられるが、芙支二十四年(1555)
には石松鎮昌が再興の願主として大鼓を寄せている。天正検地では大原大宮司の知行分九
町余のほかは禰宜四名の三町歩未満と神宮寺六坊の三町歩はどがあったという。斐策元年
(1624)日田藩主石川忠総により田島に移され、求玖里の跡地は元大原または本宮と
称された。蓮聖四年(1676)放生が再興、じ貞葦う四年(1687)石段の普請がなり、
寛政期(1789?1801)には社殿が再建された。大原八幡宮御田植祭は県指定無形
民俗文化財。大原八幡宮銅鉾は県指定文化財。
出典
大分県の地名