玉来神社

(概要)                                      
 老松神がいつごろから天神信仰の代神として勧請され始めたかは不明だが、雷電常襲の山村地帯
津江地方だけに、雷神としての天神様を氏神としているところや、老松神が森林神の性格を持って
いることなどが津江地区に勧請された理由と思われる。

(文献)
「扶桑略記」のて実遠く九年(955)三月十二日の条に、「天満天神託宣二云フ、(中略)我二従フ
者二老松・富部卜云フ者ノニ人有り、第ハ老松二持タセ彿舎利ハ富部二持タセタリ0是皆筑紫ヨリ
我ガ共二束レル者トモナリ。(中略)老松ハ久シタ我二随イテイル者也是ハ至ル所毎二松ノ種ヲ蒔
ク、云々」とある。「大分県地方史」で渡辺澄夫氏は、「この託宣によって京都に北野社が創示巳され
たが、この時春族である老松神も祀られたものであろう。このように老松神は北野天神の従者とし
て祀られたらしいが、のち太宰府にも摂社として面巳られた。」と述べている。

 老松神がいつごろから天神信仰の代神として勧請され始めたかは不明だが、天神との一体化の様
子を中野幡能氏は大分県地方史で次のように述べている。「さて老松社の祭神は、もともと道真在世
当時の侍臣を福部社、自大夫社として祭ったのと同様に、北野神社の摂社として本殿の東北回廊内
に地主社として奉斉されたわけで、いわば祭神の巻族神であった。この老松社が天神信仰を代表す
るのはいつ頃か分からないが、八幡の善神王の場合をみると賠神として祭られたのが、御旅所の神
として祭られ、主神が『お降り』しているうちいつしか主神と一体化してくるようになるが、天神
の場合もこれと同様に農山村における雷の信仰に降りてくると、いつしか主神よりは脊族神に重心
が傾き、天神信仰と一体化したものではなかろうか。(中略)このように老松大明神はもともと天神
の春族神であったが、その初めは北野神社ではあるが、薩摩や大肥庄にみる如く安楽寺額である荘
園に、安楽寺の鎮守として老松社が奉斉された事は、全く主神と一体化してしまった事がうかがわ
れる。」とある。

 このように主神である天神と一体化した老松神が、津江地区に勧請された一番の理由は、津江山
が笥凍害実売結うの荘園であったことだろう。
 渡辺澄夫氏が「大分県地方史」で指摘しているように「‥‥老松社が太宰府神社関係(たとえ北
野から勧請されたにしても)の神であることは明らかであり、当山が安楽寺領であることと関連し
て、神社領の統制組織に本社の分霊社を勧請した典型的な事例であるばかりでなく、各村毎に厳然
として残存することもすこぶる貴重である。」と安楽寺が自衛の荘園に分霊社を置く、ということで
あろう。

 天神とは、もとは地祇(くにつかみ)に対する天神(あまつかみ)のことであって、各所の地名
を冠した00天神がそれである。それが一般にいわれている天満天神に統一されたのは、平安時代
に菅原道真の霊を示巳ったことによる。政敵の藷警によって太宰府に左遷された道真は、恨みをの
んで太宰府に没した。ほどなく都には天災が続き、政敵一門に落雷に打たれるなどの死者が続出す
る異変が起こったが、それらは道真の怨霊のなす業と恐れられた。朝廷では道真の霊を鎮めるため
北野に神社を造営し、菅原道真を天満大自在天神・太政威徳天として祀った。分示巳社は全国に一万
余社ある。天満宮、天神は生前の道真が学問、詩歌、文筆にすぐれていたところから、学問の神と
して信仰を集めている一方、雷神としての側面も持っており、雷除けの神としても祀られた0しか
し、天神はやがて学問の神としての性格を弓虫め、雷神としての性格は、脊族神である老松神などに
引き継がれていく。文の神としての天神様ではなく、雷神としての天神様を氏神としているところ
に、雷電常襲の山村地帯津江地方の一特色をうかがうことが出来るのではないか。
 また、「天満天神託宣記」にもあるように、老松神が「至る所ことに松の種を蒔く」森林神の性格
を持っていることが、津江地区に勧請された理由の一つになっていると思われる

出典
中津江村誌 日本の神様を知る辞典