津江七社
F47
(概要)
 津江七社にはいくつかの説がある。七人の童子が出現した「矢野家伝」や、宮原の伝承松で老松
様を八体刻んみセケ所に示巳ったものや、「前津江の文化第四軌では「鎌倉中期に津江長谷部氏が津
江の各地に七社を創建したものを津江七社という」など。
(文献)
「矢野家伝」によると、「日田郡の開起後、神武天皇の御代に、松の杖を携えた老翁が出現して
く呈諸みと碧草の上に坐して問答をする。老翁とは天地の専精で後世老松と称すと編者は記す。土神
は土地の精で俗に山神ともいう。老翁が松杖で地を打ち、“松子の神”と呼ぶと忽然として七人の童
子が出現した。翁が“汝らこの土地にあって地主となるべし”と言い土神は大いに喜んで“老松な
るかな”と言った。さらに翁は松子の神の土神に対して“汝はこの土地の先達として守となるべし”
といったので、土神は喜んで七人の神は松翁の分身であるとして、地に伏して百拝した。その後七
松子は松翁に“ここより南方のセケ所に安住する”といって立ち去った0これが津江七社である」
とある。
 菅野(宮園津江神社の宮跡の地区)の伝承では、「中津江の文化第二集」に高田三郎氏が、「宮
原にドゥトコと呼ばれる高村さんの畑がある。ここが昔の老松神社の跡であるが、この横に大きな
松があった。この松で老松様を八体刻んだそうである。それを宮園・八所・中村、上津江村の敵
前津江村の航、福岡県ズ覧の岩慕、矢部村の節混のの一体は余ったので谷に捨てた。捨てた一
体は大山まで流れて、女の人に拾われて祀られたということである。黒木の老松様は、牛の背に乗
せて運んだので、牛の宮と呼ばれるようになったということである。老松様の所には木を構えたの
で、今は大木になり残っている。」と記している。この話は前述の「矢野家伝」の伝承に該当する話
であるが、七社の所在が異なる。また同じ第二集に、高田氏と同じく中津江村文化財調査委員であ
った猪野到氏の津江七社に関する伝承の記録には、「松の老木で御神体を八体刻み、分社奉示巳した0
その分社は津江郷五社、宮園、八所、中村、上津江村浦、前津江村大野、その他として、大山村の
鞘‡儲、八女郡黒木町、八体の内一体だけ不明。」とある。高田氏の記録と違うのは柚木、矢部村
宮ノ尾の二社がなく、前津江村大野、大山町中川原が入っていることである

「大分県地方史」で中野幡能氏は、「津江には多くの老松天神の社が鎮座しているが、江戸時代の
記録・棟札によると老松大明神と呼ばれている。鎮座の村は、前津江村の大野、柚木、赤石、中津
江村の八所、宮園、上津江村の甫手野、小川原のセケ所で、これを津江七社と呼んでいる0」と記し
ている。中津江の中村、八女の黒木、矢部の宮ノ尾をはずし、上津江は甫宇野をいれている0
 右藤大一氏は「前津江の文化第四輯」で津江七社について「鎌倉中期に津江長谷部氏は津江の各
地に七社を創建したがこれを津江七社という。大野、赤石、柚木(前津江村)、富国、八所、中村(中
津江村)、浦(上津江村)の七社で、これに中川原老松社を加えて津江八社とも呼んでいる0」とし
ている。

 以上四氏それぞれに挙げている社は少しずつ異なっているが、全部合計すると、前津江村が柚木、
赤石、大野の三社、中津江村が富国、八所、中村の三社、上津江村が浦、甫手野、小川原の三社、
大山町の中川原、福岡県の八女郡黒木と矢部村宮ノ尾の二社、の十二社になる0津江七社とか八社
とか言えば、津江山とか津江荘と呼ばれていた当時の津江をさしていると考えて、先ず深い縁起は
あるにしろ福岡県の二社を削る。上津江の浦、甫手野、小川原の三社のどれかとなると、浦、甫宇
野は隣同志の地区で、浦の社が老松大明神と呼ばれていて、小川原、甫手野に老松社はない0とす
ると、前津江の柚木、赤石、大野と中津江の宮園、八所、中村に上津江の浦で津江七社、大山町の
中川原を加えて津江八社とする右藤大一氏の記述が一般的であると思われる。

 津江七社祭神は・大山のいわゆる口津江といわれていた地区と、中津江・上津江の奥津江といわれた
地区の社で大きく分けると、いくつかの点で差異が見られる0両津江の祭神の違いや、奥津江の四社だ
けが津江神社と社号を変更させられ口津江の四社は老松大明神のままであった、など。


 中津江村の三社と上津江村の一社の祭神は、主神としてあ芙韻笥宅よく蹴芸静、を奉示巳している。中津
江村三社は、江戸時代前期までの行政単位であった櫛手・磯村・遥指洛のそれぞれの村の鎮守であ
り、氏神であったわけである。その創建は儲やが一番古く、桜三年(1023)、宮原に日限四郎の信
仰で、天神地祇十二代を示巳ったのがその創始であるといわれている。
天瀬町眉許の中村老松大明神の祭神はす管長摺賢ねである。ある時雷鳴がひどく鳴りひびき、天神で
ぁる菅原道真を祀ったところ、御幣が風に飛ばされて近くの竹薮で止まってしまった。そこでその竹薮
を社地として天神を祀り、老松大明神として崇敬したという。後目、時の日田郡司お鵜描えが、領地
を寄進し社殿を創建したという伝承がある(天瀬町文化調査委員 佐藤鎮寛氏談)。他の老松社のように、
永季の祈願によるという形はとっていない。また天瀬町には老松と称する天神社、天満社は外にはない
ようである。

大山町筍満窟の老松大明神は、永季の老松社勧請の遺言を子の宗季が実行したことになっている。ま
た祭神は、菅原道真・北御方吉祥女・鬼大夫大蔵永季の三柱である。
 前津江村三社に共通する祭神は、菅原道真および大物主命である。天瀬町の中村社・大山町の中川原
社も菅原道真である。前津江の三社は、「津江長谷部氏の像代官として創建されたのではなかろうか」と、
右藤大一氏は、「前津江の文化策四輯、津江殿と一族、付津江老松社の勧請」で推定している。その後、
老松神を配祀し、室町時代中期になって、老松大明神という社号を称えるようになったと主張している。
 これに対して中津江の三社と、上津江の浦社は、天神七代・地祇五代の十二神と、吉祥姫命、菅原道
真を祭神としている。神社創立時の主祭神はあくまで天神地祇十二神で、吉祥姫命、菅原道真は少し時
代が下がっての相殿配面巳という形で祀られたものである。また、明治初年の神仏分離、神社合併の大き
な流れの中で、村内各地の小さな天満社等も合祀している。

 両津江の祭神の違いを整理して見ると、前津江・大山の四老松社には、天神地祇十二神は奉示巳されて
いない。それに比して上津江・中津江の四社は、創立の時の主祭神として天神地祇を祀っている。口津
江は長谷部氏の像代官として出発し、後世、菅原道真を配祀しているが、奥津江は、菅原道真のみでな
く、吉祥短命を一緒に相殿配祀という形で祀っている。奥津江はややもすると道真よりも、吉祥姫命の
方を重視している傾向もみえる。

 両津江とも創建の時の社号は不明であるが、室町時代中期になって何れも老松大明神という社号を称
している。明治三年(1870)大分県の調査の際、奥津江の四社のみは、天神地祇十二神と道真との相殿
配祀は不都合であるとの理由で、津江神社と社号を変更させられている。ロ津江の四社は老松大明神の
ままで、奥津江だけ変更させられたということは、奥津江の老松社が、皇祖としての天神地祇を主神と
して奉面巳していることによったためと考えられる。

出典
中津江村誌