地名「万々金」

(概要)
                                                                                 一
 万々金村は現在の中川原・吾々路・田来原・上山・下山である。大山川左岸の大半部を
占め、同川流域と支流赤石川・大野川筋などに点在する集落からなる。

(文献)
 万々金村(現在の地名:中川原・吾々路・田来原・上山・下山)
大山川左岸の大半部を占ゆ、同川流域と支流赤石川・大野川筋などに点在する集落からな
る。
小切畑の地は開発が古かったと考えられ、近世初頭の村切に伴い周辺の集落とともに万々
金村の内として再編成されたが「豊後国志」などに万々金と「小切畠」が並んで記される
ところから、より独立した集落とみられる。
天正8年(1580)と推定される4月 26日大友義統感状(石松文書)に「井手口松原村」と
みえ、大友氏に敗れた田北紹鉄が筑前に敗走する途次、当地で首をはねられたという。
慶長6年(1601)の予州替地御知行所目録(佐伯藩政史料)には「ままかね村」とみえ、同
7年の玖珠郡・日田郡御蔵人目録(同史料)では万万金となっている。
慶長豊後国絵図に村名がみえる。正保郷帳には万々金村とあり、大山庄に属し、茅山有と
記す。
中川原は北の高取村内千丈とは浮橋による渡しで結ばれ、南東の小平の尾比良渡(豊後国
志)にも近く交通の要で、また庄屋宅があった。
 毛付高写(豊西説話)(1714)で述べている「大山筋六ケ村」の一つである。
明治8年(1875)鎌手村などと合併し西大山村となる。

「矢野家伝」の中で万々金の由来を次のように述べている。
“大山に入った松翁は牛頭に似た力夫にあう。力夫は叫中に土丸と号す土徳の神がいる事
を告げ、翁の臣とするか問う。翁は土丸を招きこの地を開き、国人に使用させよと命じた。
その後、汝はこれ国の先頭(まっさきかしら)なりといったと記されている。”
この説話について矢野家伝の編者は上術の先頭が鬼蔵太夫(大蔵氏)の命により、万々金
先頭と称したことによると述べている。
参考文献

角川地名辞典・平凡社地名辞典・日田郡の文化財